「Re: 引用と転載」から考える、はてなキーワードの可能性〜大衆による造語から生まれる知への期待

Re: http://d.hatena.ne.jp/iwaim/20050627/1119803906

(以下、草稿みたいなものです。書き直した方がいいかなと思ったのですが、大枠は似たようなものになると思ったので、とりあえず。長くて申し訳ありません。適当に飛ばし読みしてください_(._.)_)

引用の際の主従関係は、量的な観点、質的な観点から判断されます。 はてなダイアリーのような構成の場合、「引用」キーワードの全体に対して解釈されるということが妥当でしょう。

では、「引用」を解説する際に何が必要なのかを考えてみましょう。 そうすれば、『著作権法に書かれた内容についての記載』と『引用足り得るための条件』の二つは解説すべき事項となります。 そのうちの一方『引用足り得るための条件』即ち「引用キーワード」の項目としての「引用の際に注意すべき原則」の解説のための文化庁の著作物を用いることは、質的な観点から引用ではなく転載だと言えるでしょう。

iwaimさんのおっしゃる解釈が妥当であることに対して、個人的に現時点では異論はありませんし、質的な観点を挟むと転載だと言えるという解釈が妥当であることも、疑問の余地もないと感じます。丁寧な解説、どうもありがとうございました。


ただし、結局、私がずっと問題にしているのは、引用の是非の判断には、常に「解釈」の余地があり、それゆえ「妥当性」を判断する必要があるということであって、ゆえに、そういう状況下で罵倒し断定するのはいかがなものか、そういう方法で本当に文化の発展に寄与するのか、というところなのです。

もちろん、iwaimさんが問題があると指摘されたキーワードがまさに「引用」であり、それを「解説」する場合に、これら引用の主従関係に関する解釈の妥当性を正しく判断できなかったのは、問題だったでしょう。しかし、そこで、ああいう反応をしてしまうことに利があるのか、ということです。


はてなキーワードは、全体として、質的な不備があることを最初から盛り込んだシステムであると私は解釈しています。つまり、不備があれば、ユーザ自身がその時点で不備を訂正し、協力して質を上げていくような、動的なコンテンツであるということです。そこが静的ないわゆる辞典(Wikipediaを含む)との違いです。

いわば、オープンソースのスナップショットと、安定バージョンとの違い、という感じでしょうか。


辞典/辞書は、既に確定したコトバを正しく解説することでコミュニケーションを誤解無く円滑に運用することが目的かと思いますが、はてなキーワードは、コトバという手段を介して相互作用を生み、そこから新しい何かを生み出すことを重視しているように見えます。いわば、 はてなキーワードは、創造のプラットフォームです。

つまり、目的が反対なのではないでしょうか。


もちろん、かといって著作権法違反をして転載していいといっているわけではありません。それは当然、[/help#aboutkeyword:title="はてなダイアリーのヘルプのキーワードの項"]にも明記してありますし、違反しているのは良く分かっていないアホで馬鹿なユーザだけです。

しかし、それを罵倒してしまうと、間口が狭くなってしまい、大衆の多くを切り捨て、結果として辞書のように偏った、静的なものと化してしまいます。。実際、私は、はてなキーワードの説明を書くことに以前から重圧を感じていて、何でだろうと思っていたのですが、そうして罵倒されることが怖いからなのだろうと今ようやく分かった気がします。こうして一部が排除され、多様性が失われていくのではないでしょうか。


私が「Wikipediaウィキペディア)」より「はてなキーワード」の方に魅力を感じているのは、その動的で創造的な部分です。

現在、folksonomyフォークソノミー)というコトバが生まれています。これは、「大衆による分類」と直訳できますが、その実は、大衆による積極的な造語への働きかけでもあると考えています。つまり、辞書や標準語というものは、もともと統制のため、政治的に意識して採用されてきたものであり、上からの作用なわけですが、インターネットという道具を得て初めて大衆が自分たちのコトバを標準へと押し上げるための環境が整ってきたということで、下からの改革とも言うべき新しい流れでもあるということです。そういう意味では、はてなキーワードは、まさにフォークソノミーでもあります。

また、造語というのは知と密接に関連しているはずで、私は知の本質は造語だと考えているのですが、そういう意味で、"umedamochioさんが取り上げている「大衆の知(Widsom of crowds)」"を実現するための近道の一つがフォークソノミーであり、はてなキーワードであると思うのです。


つまり、はてなキーワードは、まだまだ荒削りで、転載などという問題も含めて清濁ありますが、そのfolksonomy的作用によってWisdom of crowdsを実現する一つの道足り得るし、現在のインターネット上の大きな流れであるそういうムーブメントの一翼を既に担っていると考えています。そして、(たぶん)世界に類を見ないという意味でユニークで、注目すべきコンテンツであると思います。


Wikipediaも、もちろんインターネットという環境があって初めて成り立つコンテンツですし、十分魅力的なのですが、その対象が既に枯れたコトバだけであって発展性が少なく、また、その厳格な運用によって実質インテリだけしか参加できないという意味で、やはりpediaはpediaでしかないと限界を感じるわけです。

さらに言えば、私の感覚からすると、各ページどころか、はてなキーワード全体を有益な一つのデータベースとして捕らえ、その中で主従関係を云々したいぐらいなのですが、それはアリエナイことでしょうか。

それは斬新な解釈だとは思いますが、無茶な解釈でしょう。

確かに現行著作権法に照らせば無茶でしょう(笑)。転載が多く、問題が多いことも否定しません。


現行の著作権法ではデータベースぐらいしか思いつかなかったので、データベースと書いたのですが、ここで本当に言いたかったことは、上記のように、はてなキーワードには、大衆による知(Wisdom of crowds)を生むためのプラットフォーム足り得る可能性があるのではないでしょうか、ということです。

もちろん、みんなが皆、私のようにはてなキーワードを評価しているわけではありませんから、iwaimさんのような指摘は当然ありうると思うし、必要でもあると考えています。ただ、アホだ馬鹿だと切り捨てて終わるなら、それは発展性がなく、悲しいことです。

現行法に照らし合わせてダメということは、それはそれで重要ですが、どう活かすかを考え試行錯誤していくことの方がもっと大切だということです。私は解釈がしたいのではありません。現行法にできるだけ準拠しつつ、不足なら現行法を改善し、どうやってこの大衆の知を実現するのか。そういう視点で私は考えていきたいと思っています。


そして、この大衆の知を生むための土壌(=オープンソース?)というものは、現行の著作権法ではカバーしきれない部分ではないかと思うので、iwaimさんのように現行法に詳しい人には、是非、現行法をどう改善していけばよりよくなるのかという(レッシグ教授のような?)視点で書いて欲しいと思ってしまうわけです。


大衆の知なんて、役に立つのだろうか、という疑問はあります。大衆の選択が正しいのかどうかでいえば、私は、有害な場合が多いと感じています。大衆の大衆たる所以は、その短絡指向/脊髄反射ですから。しかし、そういう脊髄反射が歴史的に見れば意外に的を得ている場合もあったりするので、それを排除することは知の損失であるとも思っていますので、活かす方法があればそれは素晴らしいことだと思うのです。インターネット時代になってその大衆の知が活かせる実証例が徐々にできつつあり、なるほど、こうすれば新しい(大衆の)知が得られるのか、などと、期待しているのではないでしょうか?

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*1:もしここまで読んで下さったならありがとうございました。 まとまらなくて、はてなブックマークに現実逃避してしまいまったのですが、Wisdom of Crowds関連の記事を読んでいたら、考えが浅いことが良く分かりました。orz 途中で、このエントリーは公開するのを止めようと思ったのですが、プロセスを公開するということに価値を置き、公開してしまうことにします。 また機会があれば書き直したいと思っていますが、はたして…